今日は、里山文化講座「みどり森の歴史めぐり」を実施しました。
みどり森の里山は人と自然の関わりの中で残されてきた野外博物館ですが
この里山文化講座では、歴史的にどんな関わりを持ってきたのか?
文化財保存全国協議会の門内政広氏に案内をしていただきました。
大谷戸湿地はみどり森で一番大きい湿地で、現在はヨシ原となっていますが、昔は田んぼ(谷戸田)として利用されてきました。
狭山丘陵では弥生時代後期から稲作が行われていたそうです。人々は生活様式が変わるのに合わせて、住居の場所も変わってきた
というお話もありました。
二又になったコナラの木ですが、人々が薪をとるために伐採して、切り株から萌芽したものが育った証です。
古くは縄文時代の人もクリなどの木を植えて食料にしたり、住居の材料として利用していたそうです。
ただ今、絶賛花粉症の季節ですが、このスギやヒノキも利用されなくなった雑木林の代わりに1960年代ごろから
植林されてきたものになります。薪の代わりに建材として利用できる木を植えなおした歴史があります。
雑木林広場では、本物の縄文式土器の破片や石鏃(せきぞく)という石製の矢じりなどを参加者の方が
手に取ってそのつくりを見ました。縄文式土器はただ粘土を固めて焼いたわけではなく砂などを混ぜて
強度がでるように縄文の人も工夫していたそうです。
雑木林広場周辺には、いくつか石碑があります。「高根社」や「文教塚」という石碑です。
「高根社」はみどり森スタッフも色々な方に調べていただきましたが、設置された目的が分からない石碑です。
「文教塚」は筆や硯などの昔の文具を供養するために建てられて石碑ですが、どちらの碑にも梵字が描かれています。
他にも庚申塔も近くにみられますが、こちらは江戸時代の庚申信仰の中で建てられた石碑です。
これらの石碑がある雑木林広場周辺は、昔から人々が生活で利用していた場所や道であることが分かります。
また、疎林広場近くには、昔、大聖寺というお寺があり、滝の跡があった場所を見ることができます。
明治時代に描かれた「宮寺八景」には「大聖寺秋月」という詩画図が残されています。
今は滝も流れていないので昔の様子とは程遠いのですが、昔の様子をイメージするのも歴史めぐりの醍醐味です。
大聖寺滝跡の次は、都稲荷神社を見学しました。昭和45年に現在の場所に移される前は大谷戸湿地の東側に祀られていました。
その時の遷宮の碑と一緒に「稲荷社」という石碑も建てられていました。「文教塚」などと同じ梵字の入った石碑ですが、
もしかしたら昔の社と一緒に建てられていたかもしれません。
最後にこの狭山丘陵が古多摩川の浸食により独立した場所であることなどもお話しいただきました。
このブログでは書ききれない内容でしたが、古くは縄文時代から自然を利用しながら管理してきた歴史を知ることが
できました。自然以外の歴史的な目線で歩いてみると新しい発見があることが分かったイベントでした。
はせがわ